紙の始まり

紙は中国の四大発明(火薬・羅針盤・印刷術)の一つであり、長い間、「後漢時代の元興元年(西暦105年)に蔡倫が発明した」とされていましたが、実はそれよりもおよそ200年以上も前に、同じ中国で作られていたことが判りました。

近年(1933年~)の発掘によって前漢時代の紙が発見され、紀元前2世紀ごろにはすでに紙は存在していたという説が有力になり、紙は紀元2世紀初めの後漢時代に発明されたというそれまでの定説が覆されたわけです。

真の紙の発祥の地は中国であり、およそ2100年前の前漢時代に大麻の繊維を使った紙が始まりで、その後、紀元2世紀の初め(西暦105年)の中国・後漢時代に、蔡倫という人が技術の改良を行い、今日の製紙技術の基礎を確立しました。これにより紙の改良者ないし製紙の普及者は蔡倫とされています。彼の造った紙は「蔡侯紙」と呼ばれ、原料として樹皮、麻、ぼろ布などを用い、これらを石臼で砕き、それに陶土や滑石粉などを混ぜて水の中に入れ簀の上で漉く方法を採りましたが、このやり方は原理的には今日の紙漉き法[①皮を剥く(調木) ②煮る(蒸解) ③叩く(叩解) ④抄く(抄紙) ⑤乾かす(乾燥)]とほとんど変わりがありません。

この中国の製紙技術は、8世紀に今日でいう、いわゆる「シルクロード(絹の道)」を通って西進し、中央アジアを経て10~16世紀にわたってヨーロッパ諸国に、17世紀にはアメリカに、19世紀初頭にはカナダに紹介され、洋紙として大きく発展していきます。

和紙の始まり

日本の紙作りの起源には複数の説がある。大別すると、日本で自然に紙漉きが発生したとする説と、渡来人による伝来説になる。いずれの場合でも、時期に関しても諸説あり、早いものでは3〜4世紀とするものからある。

5世紀に入ると、日本で紙作りが始まったきっかけになっただろうと考えられる有力な記録が登場する。『日本書紀』に拠れば、履中天皇4年(403年)に初めて国史(ふみひと)を配置して言事(ことわざ)によって様々な事柄の記録を始める、とあり、公権力によって紙による記録が始まり、紙作りの必要性が興ったと推測されている。なお、この年代に関しては『古事記』とは数十年の齟齬がある。

6世紀初頭には、福井県今立町(2005年に合併により越前市の一部)にて、紙漉きが始まったとする伝承がある。

6世紀半ばになると、欽明天皇元年(540年)が渡来人である秦人・漢人に戸籍の編集をさせたという記録がある。この時に使われた紙は郷戸が作成したとされており、秦人が日本で紙を作ったと推測されている。一方、これと相前後して宣化天皇3年(538年)に仏教が伝来し、この際に百済の製紙技術が持ち込まれたと考えられている。

製紙技術の歴史は、中国「後漢」時代の蔡倫の改良から始まる。中国から日本への製紙技術の伝来は、推古天皇18年(610年)、高句麗を経由してされたとされる。公式記録として確認できる記述は『日本書紀』にある。また、継体天皇7年(513年)、五経博士が百済から渡来し、「漢字」「仏教」が普及しはじめ、写経が仏教普及の大きな役割をはたしていたことからこの頃すでに紙漉がいたのではないかと推測される。

『日本書紀』の記述は、「推古天皇)十八年春三月 高麗王貢上僧 曇徵 法定 曇徵知五經 且能作彩色及紙墨 并造碾磑 蓋造碾磑 始于是時歟」、高句麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。また彩色及び紙墨を能く作り、併せてみず臼(水車の動力を利用した挽き臼)を造るとある。飛鳥時代の推古天皇18年(610年)に高句麗の僧侶曇徴は紙漉きと墨を上手に作る事が出来、横型水車動力による特殊な石臼も造れ(、石臼製造のみ日本初であると特記されている。なお、この石臼の用途については、色材(顔料)の製造用、寺院による豆乳製造用、製紙原料叩解・解繊用と諸説あり定まっていない。年代のわかるものとして現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃、筑前、豊前の戸籍用紙である。また、最古の写経である西本願寺蔵の「諸仏要集教」は、立派な写経料紙に書かれており、西晋元康6年3月18日(296年5月7日)の銘記がある。

越前和紙とは

越前和紙の始まりについてははっきりしていないが、全国でも例のない紙漉きの紙祖神である川上御前伝説がある。室町時代には流滝寺の保護下に紙座(組合)が設けられた。江戸時代から明治・大正・昭和・平成に入る前後頃までは、越前の襖紙の需要は全国の大半を占めていた。
「越前奉書」や「越前鳥の子紙」は公家・農工商階級の公用紙として重用される。江戸時代に産地を支配した福井藩は越前和紙の技術の保護や生産の指導を行った。1665年(寛文5年)には越前奉書に「御上天下一」の印を使用することが許可される。1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会では越前和紙の製品が「進歩賞」を獲得したが、2017年(平成29年)2月に越前市内の蔵でその賞状とメダルが発見された。

明治以降は、日本画、版画、水彩画、油画、水墨画、鉛筆画、パステル画など、多くの画材、素材の用紙(支持体)としての画用和紙の需要が増加する。その品質が石井柏亭、中西利雄、竹内栖鳳、横山大観、東山魁夷、平山郁夫ら多くの画家らに評価、使用され、越前和紙が絵画製作に浸透するようになる。現代美術作家、美大生、絵画教室の受講生など、平面作品制作の支持体として、造形作品、立体作品の材料として使われている。その反面、現代の住宅環境の急速な変遷に促され襖紙や小間紙の需要の減少、証券紙の電子化による減少と製造紙種の変更(合成紙等)、機械漉きによる量産の反動、機械漉き製造に伴う人員削減、和紙製造の廃業、撤退も相次いでいる。デジタル・コンテンツの普及に伴い画用和紙(版画、絵画)に加え、インクジェットプリンター用、複合機印刷用、フォト印刷用の印画用和紙も近年、和紙販売店の店頭に増加している。また壁紙などインテリア用に和紙が活用されてきており、インテリアデザイン、ペーパークラフト、工作、手芸など製造紙種が豊富になってきている。

檀紙とは


檀紙(だんし)とは、楮を原料として作られた縮緬状のしわを有する高級和紙のことで、厚手で美しい白色が特徴であり、主として包装・文書・表具などに用いられる。

古くは主に弓を作る材料であったニシキギ科の落葉亜喬木であるマユミ(檀/真弓)の若い枝の樹皮繊維を原料として作られたためにこの名がある。

『源氏物語』や『枕草子』にも登場するなど、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には讃岐国・備中国・越前国が産地として知られていた。なお、徳川将軍による朱印状も原則として檀紙が用いられていた(高山寺・大覚寺の所領安堵朱印状など)。

昔の檀紙は紙肌が荒々しい凹凸の簀目跡がでた厚手の楮紙である。その雄渾(ゆうこん)な味わいが中世武家社会の気風に合致し武家文書最高の権威のある御判御教書(ごはんみぎょうしょ)の料紙として重用された。

近世になって、抄造の際に一種の技工を施して紙面に独特の皺(シボ)を作るようになった。格式高い越前檀紙のシボの模様に、波皺、菱皺、伊達皺、竹縞皺、横縞皺などがあるがそのシボ付けの技法は、極秘技としている。越前和紙工業協同組合より一部引用